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#728 同じ学年の人たちに問うてみたくなった、最近、どうですかい?

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 同年代ではなくって、同い年、いやいや、同じ学年の親友の話。昭和43年4月から44年3月までに生まれた人たちの話。今年46歳になっちゃう人たちの話。あ、45歳もいるのか。 昭和に育ち、微妙にバブル経済に触れ、平成に期待して社会人となり、振り返ってみると、実はわりとお気楽に生きて来られた世代、でも、生き方が不器用な世代 の話です。   意図したわけではありませんし、そういうテーマな合コンがあったわけでもないのに、 そんな同じ学年の親友が少なくありません。いずれも、 学校を出てから知り合った親友。 で、やっぱり、話しやすい。気軽さがあるのかな。まぁ、よくわからんですけど。 だからなのか、ついついぶっちゃけトークになります。 そして、あれこれ深い話をしていると、どうなのよ→どうするよ→どうしようかね→どうしようもないよねという結末に至ります。ただ、最近、どうにかしなきゃいけないよね、が、聞かれるようになった気がします。 そういう年回りなんでしょうかね。みんな、それぞれに悩んでます。そして、それぞれに頑張ってます。そして、それぞれにもがいています。  昨夜も同じ学年の親友と長話をしていて、そんな流れになりましたが、同時に、お気楽に生きていられるのも、そろそろ終わりなのかなと感じたりもしました。時代と年齢と、社会的な云々やら含めて。  個人的には、なぜ、このタイミングで、今年、キミは大殺界なのだよと教えてもらう運びになったのか、その理由が気になっています。まぁ、今年がどうであろうと、お気楽に生きていくスタンスは変わらないと思っていますが……、って、変えなさいってことなのかな。あ、そっか、八ヶ岳へ行ってみよう。何か回答が落ちているような気がしますから。というわけで、ビジュアルは八ヶ岳なり。  で、どうですかい、最近 > 同じ学年のひとたち

#678 辛み大根にそば、そして、お漬け物と、気がつけば野菜中心の食生活。

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 辛み大根の話。あれです、 #550 で書きました、道の駅なるさわにて販売されている辛み大根。実は生産している方を知っておりまして、直接、譲ってもらうことができます。なんたる幸せ。というわけで、いただいてきたものを早速食すも、んー、感激といわんばかりの味わいでした。まずは、そばにて使用。  今宵の食卓は簡単にしてみれば、そばと辛み大根、そして、 京都から飛行機に乗ってやってきた千枚漬けと大根の醤油漬けゆず風味も加わって、 野菜穀物系ばかりに。 気がつけば、最近は、野菜穀物中心の食生活になっています。って、ま、八ヶ岳ライフからのことで、いまさらではないのですが。って、肉、魚なくとも、野菜が十分に美味いと、これで十分と思ってしまうもので。といっても、ビーガンではありませんし、小食というわけでもありません。  そうそう、辛み大根は、このぐらい使います(写真)。薬味だから、ちびっとではなく、美味いからドバッと。はっきり言って辛いんですが、とても美味くて、辛み大根を食べたいがために、そばを増やすほど。 この辛み大根と京都のお漬け物、数日は残っているでしょう。食してみたい方は、是非どうぞ。あ、そばは乾麺なんですけど、これがとても美味い蕎麦だったりします。ちなみに、我がマンションのエレベーターは昼夜問わず停止時期は過ぎ、昼間のみ停止となっています。

#666 食には、人が豊かになれるすべてのベースがある、って、大きな話。

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 実は、というか、いつもなのですが、ここでは書き切れないほどに、八ヶ岳では豊かな時間を過ごしています。って、自分ひとりで過ごしているわけではないんですが、って、別にパートナーといるとか、そういう意味でもなくって。八ヶ岳ライフを愉しんでいるご夫妻とあれこれとご一緒させてもらっています。って、言葉にすると、すごくずぅずぅしいですな。ま、いいや。豊かなのライフスタイルを送っている方ゆえに、食事処もあれこれいいところをご存知であちこちと誘ってくださいます。で、今回は、日本料理を(画像はその一部)。  過去と同じことを述べますが、食は、人が人として生きていくために、とても大切なことです。大事というより、大切。それは、人は有機化合物を作り出せない独立栄養生物だから食べないと云々……とか、そういう理科の話ではなくって。食には、人が豊かになれるすべてがあると思うのです。なんて偉そうに語っていますが、これは自分で考え出したものではありませんが。そもそも、食とは、人すべてに共通する話題のひとつですから、そこから会話が生まれるのはごく自然なことであり、コミュニケーションも簡単にできるものです。といっても、それは味をどうやって偉そうに表現するか、ではありません。食をベースにして、その時間をどう豊かに過ごせるかってこと。そのためには、食は美味しいことが理想ですし、愉しい仲間と一緒のほうがいいわけです。ということから、ひとり飯はできるだけ避けたい……、につながるわけです。  またも、話が飛んできましたな。軌道修正しましょう、軌道修正。えっと、何が、言いたいのか。たまにですね、食べることが作業になってしまっている人を見かけるのですが、これ、とてももったいない、ほんとうにもったいないと、感じます。ゆっくり味わうこととは、結果的に食べるスピードを落とすことになるのかもしれませんが、その本意は速度とは違うところにあります。それは、場を愉しみ、会話を愉しみ、そして、理解を深め、知を得ること。なんか、違うか。とにかくですね、食べることはとても深くて、だから大切なことだと思うのです。  知人を食事に誘うこともそうです。ひとりで食べるのがつまらないから、寂しいから誘うのではなく、食を通じて、一緒に豊かな時を過ごしたいから誘うのです。これは、一方的な押しつけたる食べさせたいとも違うニュアンス

#665 薪をどうにかするところが、薪ストーブ醍醐味のポイントかも、って話。

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  八ヶ岳を訪れた、そのひとつの理由が、薪割りの手伝いでした。いや、薪運びの手伝いといったほうが的確かもしれません。それにしても、薪ストーブ、いいですやね、憧れます。でも、薪を集めるのがひと苦労です。でもですね、ひと苦労があるから、味わいも深くなるものです。  こうして、今、何でも簡単に手に入る時代になったらなったで、逆にひと手間かけることを面倒だと捉えてしまう人が多くなったような気がします。面倒だからコンビニ弁当、面倒だから既製品、面倒だから本に載ってるそのままを求めるとか。いや、自分の手に負えないことを、ほかに頼るのはいいと思うんですが、その前提なしに、ただ面倒だからと頼ることは、なんだかもったいないなぁと思うわけですよ。  ですから、薪にしたって、きれいに割られて、サイズも揃った薪を購入することは、たしかに便利ではありますが、薪ストーブたる醍醐味の多くを知らずにいるような気がして、もったいないなぁとなる思うわけです。 ストーブにくべるまでに、いろんな発見があるわけですし、さまざまな出会いがあるものです。直接、薪ストーブに関係ないところで。  そういう意味では、とりあえず自分でやってみるというスタンスは、大切だと思うんですよね。たとえ、できなかったとしても、必ず何らかの発見がありますから。あまりに、最初からできない、ダメを言ってしまう人も多いような気がします。もったいないですよ、もったいない。  って、またも話が、ずれてきました。えっと、どういうまとめにするつもりだったんだっけかな。なんか、最近多いんです、脱線が。人生はもちろんですが。いや、これを結論にしようと思って書き始めたわけじゃないんです、違うんです。

#664 愉しいこととは、ダイレクトに言葉では表現できない、というモルック話。

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 八ヶ岳を訪れた、そのひとつの理由が、モルック体験でした。これ、フィンランドで馴染みのある遊びだそうで、シンプルな道具、簡単なルール、でも、難しさもあって、子どもでも参加できるという、なんとも幅の広い遊びです。 端的に表現するならば、並べた円筒の木を倒して、点数を競う(ジャストにまとめる)だけのこと。そう、たったそれだけ。 そんな遊びを皆で体験してみようと集まったわけですが、いい大人20名弱と子ども2名が、時に声を上げて、時に大笑いしながら、夢中になるという不思議なゲームでした。あれですな、ゲームというか、少し前の言葉を使うならばレクリエーションですな。  で、思い出しました、小学校の頃、クラブ活動(授業カリキュラムの中で必須)にて、レクリエーションクラブってのに入っていました。それが、とても本格的なもの。それこそ耳にしたことのないような名前の遊びを、見たことのない本格的な道具を使って体験させてもらいました。いや、その内容はきっちりとは覚えていないんだけど。 って、今考えると、担当だった先生が、 大学でそういった内容の専攻していたようで、 道具を新しく揃えるのではなく、すでに彼女が所有していたのも(大学から借りてきていたような気もする)、そんな理由からだったんだと思います。  話がずれてきた。でも、あれこれ思い出してきた。クラブ活動といえば、中学校3年生の時、映像制作理論だったか、そんなお堅い名前のクラブを選んだことがありました。選んだといいますか、そのクラブを担当する先生に、ナオシは絶対来いよって、廊下で言われて、で、選びました。実は、その先生、授業は受けたことなく、深い会話をしたことないのに、なぜかいつも名前で呼んでくれましたし、で、いつも気に掛けてくれていた、不思議な先生でしたっけ。  話がもっとずれてきた。えっとですね、その両クラブともですね、選んで良かったと思っています。いまさらに思ったんじゃなくって、その当時に。おもしろそうという直感から誘われるがままに入ったんですが、知らなかったあれこれを体験できたって意味合いで。そう考えるとですね、楽しさそうなことは、誘われるがままにたゆとうという、このスタイルは、実は幼少の頃からだったような気がします。  というわけで、話は最初に戻ります。モルック、愉しいです。とても愉しいです。なぜ愉しいかは、こんなところ

#663 今シーズンが愉しかったからこそ、来シーズンが待ち遠しい、って話。

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 久しぶりに訪れた八ヶ岳は、って、17日ぶりでした。なんでしょうかね、この久しぶり感は、と考えること5秒ほど。カー オブ ザ イヤーやら原稿書きやらドタバタをこえて、ドッタンバッタンと過ごしていたからだという結論に達しました。特に、原稿書きについては、ストレスのたまるあれこれ云々、…中略…、だったこともあって、全てを納品し終えた時には、長い長い長い長い長い、…中略…、長いトンネルをようやく抜けたかのような、ただただこなした感があり。そんなことから 八ヶ岳再訪を久しぶりに感じたと、適当に 結論づけてみたりしますが……。  というわけで、話を戻して、久しぶりに訪れた八ヶ岳は、すっかりを超えて、完全に冬景色になっていました。八ヶ岳はもちろんですが、浅間山まで雪を被っていましたし、気温も15時には4℃まで落ち、って、これでも穏やかだったようですが。ただ、標高の低いところでは紅葉最盛期でして、東京から八ヶ岳へと向かう道中、標高が変わりゆくとともに、季節の移り変わっていく様も愉しめました。で、気づいたんですが、最近は紅葉三昧です、自分の中では。というのも、10月上旬頃からずっと紅葉をあちこちで堪能しているからなんですが。東京はこれからですから、まだまだ紅葉の愉しみは続きそうです。そうそう、カフェ花豆は今年の営業を終えていました。 日差しに穏やかさがあるけど、吸い込んだ空気から冬を強く意識しつつ、左の画像にある営業を終了しました という報告とストレートな感謝が述べられた張り紙 を目の当たりにすると、 そうか、今年も終わったのだなと感じます。ただし、それは過ぎ去ってしまった寂しさではなくて、充足感に似た安堵感であり、感謝にとてもとても近い安堵感とも表現できるものです。  八ヶ岳を訪れた目的は別項で書きますが、もうひとつ、八ヶ岳というか、長野というか、佐久ネタを。この時期、佐久市のとある企業が、社前をイルミネーションで彩ります。この会社、特にイルミネーション関係のパーツを作っているわけはないんです、でも、毎年、開催しています。しかも、これ、社員の手作りだというから、驚きです。別に、デザイン会社でもありません。個人的に、イマドキのギラギラ感のある灯は好きではありません。LEDの川を超えた、完全なる行き過ぎ、いやいや、無駄遣い、違う、過度なデザインセンスは、好みではありません。いわゆ

#643 また同じ結論になりますけどね、ひたすらに多謝という、話。

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 週明けの平日、ふらっと長野を訪れました。走行距離は700km未満ですから、最近の走り方と比べるとおとなしいドライブでした。た、たぶん。  まず訪れたのは伊那の親友宅。同年代ではなく、同い年ならではの、そして、似た感覚を持った者どおしの、でも、似ていないところもある者どおしで、これまでと、さっきまでと、これからを、あれやこれやと話しながら(今回は聞きのほうが多かったか)ドライブをして、夜は夜で、余りものを上手く採り入れながらの手作りのゴチソウをいただきながら、昼間の話がそのままに止(や)まないという、不思議な間柄ならではの、時が流れていきました。なんつーんでしょうかね、この人とは、適度な距離感と、互いに互いを尊重しあうというスタンスが、いい関係を作り上げているとでもいいましょうか。ま、そもそもの知り合ったきっかけから含めて、こやつは不思議な人なんですが。上の写真は、伊那のそば祭り会場の駐車場にて。周囲を山に囲まれつつも、この空が広いという感覚を全身に浴びてしまいますと、やっぱり、伊那っていいなぁとついつい言いたくなるもんです。心開かれるというか、心解かれる、いや、説かれるか、ってな感覚ですな。  その居心地の良さに浸りつつ、自宅のようなくつろぎをさせてもらって、翌早朝には伊那を発ち、朝のビーナスライン(左2、3番目)を訪れてみれば、クルマがいない、空が高く、でも、寒い、という爽快な心地よさがあふれていました。朝に出してもらったコーヒーがきっかけで頻繁にトレイに行きたくなっていたこともあって、景色のいいところでは立ち止まって、用を足していたんですが、それを重ねるうちに、もう、何もいらんなぁ、と、達観した気分になりました。物欲がなくなるとは異なる、まさに、何もいらんなぁ。  この気分、なんだろう、どうしてだろうと考えながら、爽快な走りを続けて八ヶ岳を半周、いや、6割ぐらい周回して、いつもの八ヶ岳を眺めるスポットを訪れてみれば、左下のような風景が広がっており、今度は、もう、いいでしょう、と、これで十分でしょと、自分を納得させる、いやいや、自分を褒めるかのような、気分が沸き上がってきました。そうなんです、八ヶ岳を眺めていると、素直になれる、というか、こうしてついつい素直にされてしまうのです。そして、こういうスタンスになると、つまり、ある種の丸裸にされてしまうと

#625 パプリカー、薪ストーブ、千曲屋の牛肉、豊かな会話、な、愉しいひと時。

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 さて、何から書きましょうかね、ってぐらいに話題が多いのです。まずは、パプリカーの話からにしましょうか。そう、パプリカではなく、パプリカー。パプリカ+カー(クルマ)の造語(ⓒItaru.A)。写真のクルマの色合いがパプリカみたいってことで、パプリカー。これ、とってもとってもいい表現だと思います。  で、なぜに、パプリカーが集まったかといいますと、いや、パプリカを意識したわけではなく、それぞればらばらにカフェ花豆へと来たら、それがパプリカーだっただけのこと。まぁ、皆、パプリカ的なセンスを持っている人たちで……、って、パンダは自分のクルマじゃないけど。まぁ、たぶん、パプリカに興味があるような人たちのセンスってのは、こういうセンスなんでしょうね。色だけじゃなくって、クルマの選び方も含めて、あとは、カフェ花豆へひょいと来てしまうフットワークを含めて。  そして、チームパプリカー(Since2013)のふたりも、カフェ花豆のご夫妻宅での宴に招かれ、そのままに泊まるという、なんともかんとも流れとなりました。泊まるつもりはなく、酒も飲まずにいたのに、美味しいチーズを前にしてアルコールなしはありえんと……、云々。それはさておき、こうして、あかの他人を自宅へと快く招き入れるスタイル、普通はなかなかできません。といいますか、それができる人は、あまり聞いたことありません。うちの実家などは全く逆でしたし。でも、いいですね、こういう感覚といいますか、スタイル。真似てみようと思うのですが、そのためには、常に家がきれいでなければなりませんな。まずは、ここから変えなければ。  で、話がそれた。なんだっけか。あ、戻って、とても愉しい宴となりました。毎度同じことを書きますが、こういう場というのは、美味しい食事と、キャッチボールありの笑いの絶えない会話が大切でして、それらがあると、相乗的に場が愉しさを増していきます。何を話したかは、よく覚えていませんが、ハラを抱えて笑ったことだけは覚えています。あと、薪ストーブ講座(C2乗りが薪ストーブ専門家)、ね。

#621 勘違いの品質を見破るには、都会を離れなさい、って、ススメ。

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 京野菜の中に、万願寺唐辛子ってあるじゃないですか。唐辛子といいながら、あんな辛さはなく、 姿だけで(といっても縮尺は違って、10〜15cmほど)の野菜 。って、意外に知られていないようで、話をするとぽかんとされることが多々あります。 で、その万願寺唐辛子の種は、全国に散らばっており、京都以外でも生産・販売されているシーンをたまに目にします。呼び名は、甘南蛮とか、甘長とうがらしとか、それぞれ。  八ヶ岳は小海でも作っている方々( こうみゆうきちゃんクラブ )がおり、また、 カフェ花豆 にて調理されることもあって、自分にはとても身近な存在になっています。なにより、旨いし。写真がそうなんですが、なんと、これ、スーパーにて納品されることを許されず、はねられたという品だそうです。その生育現場を見ている者としては、むしろ、モデルを見ているかのような、このまっすぐな整えられたかのようなスタイルにむしろ違和感を覚えてしまうのですが、はねられてしまったそうです。それはなぜか。たんに黒ずんでいるから。えっ?! と思ったのですが、スーパー基準ではダメなんだそうです。  世間一般ではこういう基準のことを品質と呼びますが、食べ物における品質は、もっと違う観点にあるように思います。 その姿形と味は、必ずしも一致関係ないのに。そう、野菜における品質とは、どうやら安全性や味ではなく、見た目にあるようで。そして、都会の人たちは、いつしか、それに狎れてしまっています。ですから、 見た目に惑わされることなく、価格にダマされることなく、食の本質を見破る目が必要であることを、強く感じました。消費者がもっと賢くならないと。それには、都会を離れてみることがいちばん。いや、生活を移せといっているのではなくてね。  そんな万願寺とうがらしですが、 東京銀座の宮崎地鶏専門店にて、600円/本で提供されていました。 そう、1本ね。 もちろん、焼いてありましたが、って逆に焼いてあるだけ。いや、炭火で焼いてあって、しかも、炭も備長炭とかだろうけどさ。山ほど食しているものとしては、信じられない価格でしたが、まぁ、まっすぐで、黒ずみなどない緑一色の優等生だけが、こうして上京できるんでしょうな。  ちなみに、京都のスーパーでは左の画像( ⓒT.ishikawa )のようにして売られているそうです。これ、 家庭の食卓に上

#615 八ヶ岳から送ることができなかった、キミに見せたいシーンの数々。

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 週末と月曜日、八ヶ岳にいました。で、さきほど帰京したんですが、知人に帰宅を伝えたらば、八王子や奥多摩では、八ヶ岳の代わりにはならないのかい? と訊かれました。それは、キミはなぜにそんなに八ヶ岳なのだい? と、まさに夏目漱石のこころ調に、問われているかのようでもあり、また、嫉妬されているかのようでもありました。ただ、その回答はとても簡単で、代わりにはなりません、との表現に尽きるのですが、そこには奥多摩も八王子も代わりになる地はないというつけたしが、加えられます。つまり、それぞれに良さがあり、それぞれに代用はできません。  もちろん、何がいいかは簡潔に文字には表現できません。ですから、それを伝えやすい手段である 写真を、右に5枚ほど。 お気に入りの1冊に「キミに見せたいシーンがある」というサブタイトルが付けられたムック本があるのですが、ここにアップした5枚はまさにそんなシーンばかり。こういったシーンに出会った時は、その場にいる人たちと共有しながらも、その場にいない人と共有したいという想いに駆られるものです。今回も、その場でメールに携えて送ってみれば、携帯電話の電波が届きにくい通信環境もあってエラーが続発。そして、届かないことを繰り返しているうちに気づきました。この、キミに見せたいという想いは、実は一方的になっているんじゃないかって。自分がいいと思ってたとしても、キミがいいと思うとは限らないのだと。そして、とうとう、送るのを止めてしまいました。  さて、写真の解説をしておきましょうかね。いちばん上は、小海町高原美術館から見た朝焼けで、モーニング対応のために朝早くから準備をしている際に、外から東の空を眺めたところ。2枚目は突然に現れた夏雲(夏空)で、秋なのに少し夏に逆戻りという日の1シーン。3枚目は夜の小海町高原美術館なんですが、時間が経つに連れて、雲が薄れていき、気がつけば満天の星空になっていました。目が慣れたんじゃなくって、雲がなくなっていって星空が。4枚目は、朝の八ヶ岳と小海町高原美術館、先の朝焼けの翌日ですが、数日、いい天気が続いていました。この後、雲が広がって、一気に風景は変わりましたが、その1時間後にまた快晴へと戻りました。5枚目は夏空と秋空が組み合わさった空と浅間山。空に浮かんでいる雲も秋雲、夏雲と2種類あるように見えます。写真は爽快な風景が広がってい

#592 秋は好きではないのだけれども、嫌いでもないという、その理由。

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 1週間ぶりの八ヶ岳は秋が一気に深まっていました。空気が冷たいとか、夏が去ったとかではなく、紅葉が始まり、落葉している木があるなど、まさに 視覚的に秋が進んでいることを感じさせます。そうなんです、秋なんですな。  実は秋は嫌いではないんですが、好きでもありません。でも、好きだったりもします。そう、見方次第で、あれこれ変わるんです。好きではない理由は、行き着く先が冬であること。ああー、終わってしまうんだなを感じさせるところが、好きではない理由。あえて、嫌いとは書きません、好きではない理由。  でも、好きなところもあります。そもそも、卒論でブナ林を採り上げたこともあって、紅葉で彩られた山が大好きです。ブナ林が、どうして紅葉なのかといえば、まぁ、ブナの紅葉というのは一気に燃え上がり、一気に散っていくもので、紅葉としては、なかなかのハイレベルな情景を見せてくれます。さらに、たまたま見られたという、今年は見られなかったといった、一期一会的感覚もあり、だから、好きなのです。  というわけで、秋は好きではないけど、嫌いでもないんです。ちなみに文句なく好きな季節は新緑の頃。これから盛り上がる感覚が、すごく好きだったりします。  画像は、八ヶ岳でのひとこま。野生のリンドウです。

#582 夏は去り、秋が到来した八ヶ岳にて、五行歌を詠んできた話。

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 なんで集中するかな、という思ってしまうほどに、締め切りが重なっています。いや、仕事があるというのはありがたいことなんですが、ここのところ2か月に一度、必ずと言っていいほどなもので、編集者に仕事量の限界を伝えておかないとならない、状況が歯がゆくもあったりするのですが。  まぁ、そもそも、自身が バッファも、メモリも不足しているだけではなく、同時処理も不得意という柄ゆえに……、って、こんなことを書いている時間があるならば、原稿書きせよって話なんですが、まぁ、それは別腹ということで。  と、さんざんにいい訳をしておいて本題に。昨日は八ヶ岳にいました。おいおい、って感じですし、原稿書きとは直接的に関係なかったことなんで、こうして公にすべきかも迷ったのですが……、って、いい訳だらけだなや。  何をするために足を運んだのか。ここでは、書いていないかな、まだ。最近、五行歌を詠むことを楽しんでいます。そう、歌を詠んでいる、と。このヨシダが。まぁ、歌会は、品があることは確かなんですが、歌そのものは堅苦しさがなく、基本ルールも五行ならば、なんでもいい、と。で、誘われての参加でしたが、これがなかなか楽しい。自分の歌はともかくとして、歌会には、いろんな意見が飛び交い、それらにマイナス面が見当たらない、という、なんとも心地よい時があります。へー、ほー、なるほど、そうか、そうだよな、ばかり。  前置きが長すぎましたな。昨日は、そんな五行歌の歌会@カフェ花豆がありまして、参加してきたわけです。ただし、目前に迫った締め切りがありましたから、日帰りで。昨日の八ヶ岳は夏空が少し戻っていましたが、その雰囲気には、強く秋がありました。日差しも木々も、空気感も。そして、夏は完全に去っていったんだな、を感じました。  あ、どんな歌を詠んだのかを書いておきましょうかね。     金は天下の回りもの?     我が家に回ってくるのは     クリップ      クリアファイル     そして保冷剤  八ヶ岳を前にして、品のある方々を前にして、こっぱずかしかったことはいうまでもなく。といっても、今更気取るわけにもいかず、もはや開き直っています。

#566 夏の八ヶ岳まとめを書こうと思いつつ、まとめになっていない、話。

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 もぬけの殻とはよく言ったもので、まさにそんな感じです。ただ、もぬけの殻ながら下界の暑さに打ちのめされ、まさにヘナヘナ。そう、東京へと戻ってきました。10日間も八ヶ岳にいたこともあり身体はすっかり八ヶ岳コンディション。元に戻るには少々の時間が掛かりそうです。  写真は、恒例の花火大会の最後のシーン。最後とその前の2プログラムは、毎年同じ内容(花火師的には違うんでしょうけども)なんですが、これがとってもいい。特に最後はもう締めくくりとしては最高といわんばかり。最初はポンポンとこじんまり、で、そこに湖上スターマインが加わって、ついつい下に目を奪われていると、ポンポンはどんどん大きくなって、高くなっていって、フィナーレ、と。この演出がとてもいいんです。個人的にはどんな花火大会にも勝ると思っていまして、それゆえか、 この花火大会が終わると、もう夏が終わってしまったという脱力感が襲います。実際、日差しは弱まり、朝晩の冷えを強く感じ、人影もまばらになり、まさに夏が終わったという風景に切り替わっていきますしね。  それにしても10日間もよく行っていたもんだと思います。というか、早かった。ほんとに早かった。特に後半はあっという間。忙しかったというのは手伝いだけではなく、あれやこれやとイベント目白押しで、また愉しさがあふれていたゆえのこと。つい先日東京を出発したという感じと、それが遠い昔のような感覚とが入り交じっていますが、まぁ、いずれにしても、充足感に浸れていることだけは確実。暑さ付きではありますが。  で、まとめ。って、まとめるつもりで書いていないし、まとめようとも思っていないですが……。あ、そうそう東京の家のバルコニーは、そのまま放置した植物は元気で、風呂場へと避難させてたっぷりと水を与えていたものが枯れていました。屋外は雷雨で潤され、屋内は高温でまいってしまったようです。  まぁ、振り返ってみれば、あれこれと心に残ることばかりで、毎回同じことを書きますが、これでいいんだ、これがいいんだを強く感じています。  というわけで、八ヶ岳と、来てくれた人たちと、一緒に過ごした人たちに、ひたすらに、多謝。

#565 居心地のよい、居場所を見つけることで、愉しさが増していく話。

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 そういえば、カフェ花豆の店内から見える外の景色を掲載したことはありましたが、外からどう見えるかはアップしたことがないような気がします。というわけで、写真は、本日の、外の風景。まぁ、言葉を用いて解説するのは愚問ゆえに放置します。詳細を感じ取りたいと思われた 方は、写真をクリックして拡大して、ご覧くださいまし。  今日は、長野側の下界、アリオがある地へと下りて来ましたが、まぁ、同じ長野でもこうも違うかというぐらいに、あれやこれやと違います。気温はもちろん、クルマの走り方まで。というか、県外ナンバーだらけって、お盆休みゆえに当たり前か。もちろん、写真のような風景は広がっていませんが、近くに山が見えますし、緑やら川やらありますから、都会とは違いますけども。とはいうものの、東京でのストレスに似た感じを受けます。それはイマドキの感覚に毒されている雰囲気ゆえに、とでも言いましょうか、そんな感じです。少し言い換えると、 時間の流れが似ているというか、行き交う人々の無関心具合が近いと言いましょうか。 まぁ、都会生活を体験した者ゆえに、ついつい言葉にしてしまう勝手のような気もしますが。  いずれにしても、愉しさを見つけるための早道とは、居心地の良さ、しっくり来る感覚を自らであれこれと探って見つけ、そして、それすらを愉しむこと、愉しめること、かと。これ、とても大事だと思いました。そうそう、16日は花火大会です。東京を午後早くに出れば、間に合います。  気がおもむくままに、是非。

#564 レタスの外側の葉であっても、美味しすぎる、その理由。

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 八ヶ岳滞在も……、と書こうとして何日目だったかを数えたら、え、5日目でした。5日目? は、早い、早すぎる。毎日のあれやこれやの愉しさゆえか、原稿書きをしながらも、日常のことをすっかりと忘れ去っていました。で、思い出した、自宅のバルコニーの植物の水やりのこと。まぁ、東京は雨が降ったようですから、大丈夫かな。  八ヶ岳にいることがすっかり当たり前になったといえば、毎日、目にして、食している野菜も、すっかり当たり前になりました。で、写真。これは、レタスです。こんな種類のレタスを見たことないと思われたかもしれませんが、普通にスーパーで売られているレタスの姿であって、これがフツー。ただし、数時間前まで畑にあったたという違いはありますが。で、見るからに生き生きとしていて美味しそう、って、実際に美味しい。そして、そのすべてが美味しくて、 外側の葉から芯にいたるまで美味しい。外側の葉は捨てるもんじゃないのか? と思われるかもしれませんが、収穫したばかりの葉は十分に食べられます。まぁ、育て方にもよるんですが、良質なレタスはそういうものだったりします。低農薬・無農薬ゆえに、そういった件での心配もなく。  今、見ているモノが、フツーだと思ったら、意外にも異例であるってことが、多くあります。特に食については。こればっかりは、間接的に見るだけではなく、直に目にして、そして直に味わうことをしないと、わかりません。  というわけで、是非。

#563 もはや、東京で起きていることが他人事になってる、八ヶ岳3日目。

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 東京では京王線が止まったとか、ゲリラ豪雨がとか、すごいことになっているようですが、八ヶ岳は平穏無事。ただただ、例年よりも暑いだけとなっています。今日、観光地である清里や野辺山を通過した時、観光で訪れている人たちの数に驚きましたが、まぁ、暑い東京やら名古屋にいるよりはいいでしょう。で、地元民でもないのに、いらっしゃいませとか、勝手に思ったりもしましたが。  ただ、何度も言いますが、日帰りはもったいないです。ひたすらに もったいないです。朝方とか夕暮れとかを目にしてしまうと、今まではなんだったのだとうというほどに完全に打ちのめされてしまいます。これ、是非オススメ。で、花火だけでも是非と言ってたら何人かから行けるかもって連絡が入りました。これこそは見ておいたほうがいいです。花火大会とはこれだったよねをシミジミと実感できますし、夏っていいなをズンと感じますから。  そうそう、カフェ花豆では、毎日が変化の連続で、そして集う人たちに豊かさを味わってもらっています。あ、 トマトのデザートがそろそろメニューに載るようです。もう、そんな時期なんですなぁ。  写真は、野辺山から見た八ヶ岳の午後。八ヶ岳って、カッコイイね、ひたすらにカッコイイ。スゴイよ。ほんと、スゴイ。と、この景色を目にしながらも、そんなチープな言葉しか出て来ませんでした。  一見の価値ありゆえに、是非。

#554 味わいもすっかり夏になっていた、カフェ花豆の8月。

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 昨日は、クーガに乗れたこと、ほか、いろいろあって、とても気分が良かったので、そうだ明日は、カフェ花豆へ行こうと思い立ちました。ま、思いつきで生きていますから、こういった行動は珍しくはありません。で、たぶん、時間があるだろう知人を前日夜に誘ったらば、行くとの返信が。というわけで、本日は昼ご飯を食べるために、おっさんふたりで八ヶ岳へと出かけてきました。 ただ、出発前に、中央道で事故による通行止めがあり、急遽、関越道まわりで行くことになりましたが、関越道&全線利用は久しぶりだったのかな。そんなことも手伝って、今回は妙な新鮮さがありました。  夏休みとはいえ、平日ゆえか、花豆は混雑しておらず、かといって静か過ぎずで、愉しい会話が弾み、時に笑い声が響き、ガラス張りの窓からは夏空が見え、まさに、ココチイイ空間が広がっていました。そう、いうまでもなく、愉しさあふれる料理はもちろんのこと。ま、まとめ的なことを書きますと、やはりそこには人ありきを感じました。シェフもご主人も、そして、うちらだけではない、ほかのお客さんも含めて、皆で、空間を作り上げている、そんな感じを受けました。  メニューは、フルコースは無理だろうと思いつつも、気がついたらフルコースになっていました。これもまぁ、いつもと同じだったりしますが。で、スタートのスープはガスパチョ(画像いちばん上)ですが、一般的な「ガ・ス・パ・チ・ョ」という感じではなく、野菜としてのトマトの力強さがベースにありながら、そこにキュウリのひんやり感が加えられ、タマネギやらニンニクやらがふんわりと香りを奏でつつ、で、スープたるのどこしも含めて、夏を食してる感にあふれていました。  メインはご主人手作りのハムとカレーのダブルプレートを選びましたが、作り方を変えたというハムは、風味という味付けに、奥深さが加わったような気がしました。プラシーボ効果か、と思いきや、そうではなかったように思います。というのも、1枚食しただけで、もう十分というほどの満足感を得られましたから。前にも書きましたが、口に含むと笑みが自然とこぼれてしまう、で、そのままでずっといたい、そんな幸せな気分に浸らせてくれます。そこに添えられている野菜も、まさに夏しているといわんばかりいった感があり、勢いを感じました。なんていうんでしょうかね、動物ならば、威勢がいい、生きがいい

#539 充実感に必要なのは、やはり、ストレスを感じない過ごし方。

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 この連休は、八ヶ岳にいました。そう、カフェ花豆の夏シーズンがスタートしたもので、その手伝いもスタート。なんだかんだで時が過ぎるのは早いものですが、八ヶ岳はなんだかんだでもう夏が始まってしまいました。当たり前か。いつも書いていますが、八ヶ岳では、話題に尽きないと言いましょうか、発見が多いと言いましょうか、相変わらずでした。そう、相変わらず。ほんとにいつもと変わっていなかった。 そして、そこにいるだけで心豊かになれるという、これもまたいつもの充実感を覚えるのは、やはり愉しい食と、おいしい会話があるからで、やはりは、人ありきであることを強く感じました。これも、またいつもと同じこと。ただ、今回は、これって、単純なようで、実は難しいことなのかもしれないと感じました。   今回は知人たちを誘って貸別荘で2泊3日を過ごしたのですが、集ったのはヨシダを介した知人であり、互いには見ず知らずという、当人どおしにとっては緊張を強いられる集まりでした。気を遣うことはないメンツばかりですが、当人どおしは初対面ですから、いきなりは盛り上がれません。ただ、そんな緊張感がマイナスに働いていると感じたのは、食の場でした。そう、いつもと同じ場所ながら、いつもと違う感じを受けたのです。 食も会話もただただもくもくとといった、作業に 落ち込みそうにならないようにと、きっかけだけを作ったところ、 愉しい食事を過ごすことができましたが。もちろん、 気を遣うというレベルではなく、知人が云々という話でもなく。  というわけで、 食事と会話の両方がバランスしないと、その愉しさは半減してしまうことを感じました。逆にいえば、バランスすると、相乗的に愉しさは増していくことも。  ちなみに今回誘ったメンツは、クルマ1台+1名乗車でやってきました。遠くは京都から2台、近くは山梨から、 東京からは自分だけでした 。運転が疲れると言葉にしてしまう人や、迎えに来て欲しいというリクエストがある方に、 あえて声をかけなかったのは、このルーズな2泊3日のスタイルに溶け込めないと思ったから。 ストレスがない地へと足を運んだのだから、互いにストレスを感じたくはなかった。ただ、それだけの話です。

#500 ふらっと、思い立って、誘われて、訪れたくなる、八ヶ岳。

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 ふらっと、八ヶ岳で行ってきました。まさに、ふらっと。思い立って。というか、誘われて。この前も行ってたでしょ、と思われるかもしれませんが、そう、5月の連休に行ってましたから、3週間前ぶり、となるのかな。ぶり、じゃないか。ちなみに、5月の八ヶ岳は、春どころか、まだまだ冬の様相を残しており、寒々といった風景が広がっています。つまり、特筆すべき感動があふれていないとも言えましょうか。逆に連休が終わって、5月下旬になると、新緑の季節を迎え、一気にその彩りを鮮やかに変えていきます。  そんな八ヶ岳へと訪れたわけですが、目的のひとつに、 安曇野、松本、乗鞍といった地域を走った ボンネットバスを題材にした絵の展覧会がありました。ボンネットバスについては、リアルタイムで目にしてはいない世代ですが、どこかでその面影を覚えていることもあって、あの頃という懐かしさを感じます。もちろん、その表現力もあるのですが、まさに懐かしい気分に浸り、また、この地域の昔に触れることができ、心温かになったとでもいいましょうか、豊かな気分に浸り、見終わった後は、しばし敷地内にあるバラ園にて、ぼけらっとしておりました。ただ、ぼけらっと言ってもですね、目の前にはアルプスが広がっていましたから、暇つぶし的なぼけらっととは異なりますので、あしからず。  絵を見るために、安曇野まで来ていますから、このままで帰るわけもなく。実は、数日後、この地を取材でまた訪れることになっていたんですが、そのロケハン(下見)をかねて、あちこちを走ってみることにしました。で、左の写真は、ビーナスライン。まったくもって寒々しい風景が広がっていますが、これが5月下旬のビーナスラインなのです。ただ、新芽が見られないわけではなく、まだまだ枯れ草のほうが割合が強いだけのこと。もう少し経てば緑に彩られるかなといった感じでした。って、考えてみれば、この時期にビーナスラインを訪れるのは相当に久しぶりのこと。なんだか、この見慣れぬ風景が少しばかり新鮮だったりもしましたが。って、この景色、この後の取材ではどうやって切り取られることでしょうかね。  今回は、途中から、名古屋の知人と合流してのドライブとなりました。って、1台にひとり、2台でのドライブです。ちょっと不思議なスタイルですが、良くやってまして、これがなかなか楽しい。ヤツとは 20年来のつきあいと

#487 素でいられるから楽であり、だからこそ愉しさがあふれてくる、八ヶ岳。

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 八ヶ岳は、春へとふっと足を踏み込んだと思った途端、冬へと少し後戻りしていました。桜がようやく咲いたかと思えば、朝方は氷点下まで下がり。ただし、東京にいるときのような冷たさを感じることはなく、むしろすがすがしいと感じるから不思議です。なんでしょうね、この感覚は。単純に空気がきれいとか、そういうレベルを超えた何かが関係しているかのように感じますが。もちろん、野菜やらは、まだまだ先の話です。  さて、カフェ花豆の今シーズンは、ゴールデンウィークに合わせてオープンし、待ち焦がれたお客さんで賑わっていました。メニューは大きくは変わっていませんが、ひとつ、信州サーモン(生)を使った料理が加わっています。それは、大きなプレートにサーモンがピローンと載せられ、サイドサラダが付いているイメージを思い浮かべるかもしれませんが、これが違う。えっと、美しく彩られています。と表現すると、なるほどね、まぜこぜか、と思うでしょうが、それも違う。ほほぅ、と発してしまうほどに、オドロキがありますから、まぁ、来なされ、って感じでしょうかね。写真については、あえてイジワルをして、見せないでおきましょうかね。  毎回、毎年、同じことを書いていますが、カフェ花豆を中心としたあれこれは相変わらず。そこに集う人たちもあいかわらず。なんでしょうね、この居心地のよさは。いちばん近い表現は、あ、うん、の呼吸、って感じでしょうか。とにかく、愉しい。ストレスがないとか、そんなレベルではない、ストレートな愉しさにあふれています。素にしてくれる、素でいられる、そんな楽さも、愉しさに繋がっています。  ですから、来られない理由をなんだかんだ並べ立てていないで、言い訳ばかりしていないで、来てみなさい、そう言いたい気分でいっぱいですな。(八ヶ岳にて)