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#686 作り手の心意気が見えるから、クルマもとてもいい、N-WGNな話。

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 福岡へと飛び立つ日の午前中は、都内は外苑にてホンダのN-WGNの試乗会におりました。最近のNシリーズから推測するに、昨今の軽自動車の進歩から考察するに、悪いわけはないと思っていましたが、N-WGNは想像以上の仕上がりをみせていました。  クルマの話はさておき、今回もとりまとめをした方へのインタビューを行ったのですが、これもおもしろかった。話を聞く前から 何か違うと感じていたんですが、ってのも、 そもそもプレスリリースの表現がいつもと違っていまして、いわゆるプレスリリースらしくない言葉遣いがあちこちに見られ、そして、ご本人によるプレゼンも極一般なプレゼンと違う。そうなんです、 このクルマ、この方のカラーが全面に出ていたんですが、それはクルマだけではなく、プレゼンにもリリースにも、すべてに表現されていました。  ま、その言葉やらをピックアップしても、書き切れないので、ここでは止めておきますが、まぁ、豊かさとは何か、どうしたら得られるのかを考えていらっしゃる方でした、とでも言っておきましょうか。このクルマのすべてが優等生というわけではありませんが、そのすべてに理由があるというか、妥協がないというか、そのスタンスが気持ちいい。そして、クルマもそれに倣っている、 だから、クルマがいい。とてもいい、 そんな感じです。そして、この方、その込めた想いをいかにして伝えるかを、どうやって伝えるかを、奥深くまで考えている方で、話を訊いているだけでいやはやと言いたくなる、そんな方でした。  あ、印象に残った言葉をひとつだけ挙げるとすれば、達成感からくる人生の充足感ってのは、難題を克服してこそ得られるものってこと、とか。実現可能なことを目標に掲げていてはいけないんだそうです。できることを1としたら、1.2ぐらいの目標値を掲げてそれをどうしたら実現できるか、苦しまなければならんのだそうです。そうすることで、なし得たという心地よさへとたどり着けるのだと。ま、先に挙げた豊かとは違う話ではありますが。  さて、いちばんの問題は、このインタビューをどうやって2000wにまとめきるか。それこそ、とんでもない難問が突きつけられた気がします。さて、どうしようか、と。

#676 ストレスをためず、熱しやすく冷めやすく、そんな、ヨシダ話。

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 そういえば、東京モーターショーへ一緒に行った親友も、 #668 で書きましたアメリカ在住の友人に似て、時たまストレートな物言いをしてくれます。たいせつな指摘ゆえに、忘れぬようにと、ここにメモしておきましょうかね。ヨシダは、……中略……、熱しやすく冷めやすく、……中略……、Neutralでストレスを発散している、と。なんとも端的な表現で書きましたが、そんなニュアンスでお言葉をいただきました。ということで、反論ではなく、自分なりに考察してみましょうかね。  まず、冷めやすいって件、実際に、次の興味が目の前へと流れてくると、後先考えずにそれに飛び乗ろうとするのは事実です。そうやってここまで生きてきましたし。ただ、それって、絶対的には冷めやすいとは思っていなくとも、相対的には結果、冷めているってことになりますな。つまり、そのとおり、と。  で、ここで発散していることについては、なんとも反論ができませぬ。ここは、思い立ったことを文字にする場として使っている“つもり”ですが、ふっと考えてみると、それがいろんな意味で発散になっています。マイナスを発散するだけじゃなくて、プラスも発散しています。そうなんです、そのとおりなんです。  これ、ストレスをためないための方法のひとつと捉えると、まさにそのとおりとも言えます。そもそも、自らストレスをためない生き方をしていると思います。特にマイナスのストレスに対しては、受け取ったらあれこれと分析してみるものの、程度やら、その人との関係といった条件をもとにして、軽くいなす、近寄らない、右から左へへとスルーといった方向へと振り分けて、処理しています。つまり、ストレスがたまりようがないフローチャートしか用意していないので、ストレスがたまらないのです。  話は飛びますけどね、そういえば、生まれて初めて、プライベートにて、お台場地区の夜(画像)を訪れましたが、完全にお上りさん状態になってしまいました。いや、仕事ではしょっちゅう行ってますし、夜だってしょっちゅう走ってます。でも、観光的な意識で訪れたのは初めて。景色というのは、意識の違いだけでも、違ってみえるものなんですな。

#666 食には、人が豊かになれるすべてのベースがある、って、大きな話。

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 実は、というか、いつもなのですが、ここでは書き切れないほどに、八ヶ岳では豊かな時間を過ごしています。って、自分ひとりで過ごしているわけではないんですが、って、別にパートナーといるとか、そういう意味でもなくって。八ヶ岳ライフを愉しんでいるご夫妻とあれこれとご一緒させてもらっています。って、言葉にすると、すごくずぅずぅしいですな。ま、いいや。豊かなのライフスタイルを送っている方ゆえに、食事処もあれこれいいところをご存知であちこちと誘ってくださいます。で、今回は、日本料理を(画像はその一部)。  過去と同じことを述べますが、食は、人が人として生きていくために、とても大切なことです。大事というより、大切。それは、人は有機化合物を作り出せない独立栄養生物だから食べないと云々……とか、そういう理科の話ではなくって。食には、人が豊かになれるすべてがあると思うのです。なんて偉そうに語っていますが、これは自分で考え出したものではありませんが。そもそも、食とは、人すべてに共通する話題のひとつですから、そこから会話が生まれるのはごく自然なことであり、コミュニケーションも簡単にできるものです。といっても、それは味をどうやって偉そうに表現するか、ではありません。食をベースにして、その時間をどう豊かに過ごせるかってこと。そのためには、食は美味しいことが理想ですし、愉しい仲間と一緒のほうがいいわけです。ということから、ひとり飯はできるだけ避けたい……、につながるわけです。  またも、話が飛んできましたな。軌道修正しましょう、軌道修正。えっと、何が、言いたいのか。たまにですね、食べることが作業になってしまっている人を見かけるのですが、これ、とてももったいない、ほんとうにもったいないと、感じます。ゆっくり味わうこととは、結果的に食べるスピードを落とすことになるのかもしれませんが、その本意は速度とは違うところにあります。それは、場を愉しみ、会話を愉しみ、そして、理解を深め、知を得ること。なんか、違うか。とにかくですね、食べることはとても深くて、だから大切なことだと思うのです。  知人を食事に誘うこともそうです。ひとりで食べるのがつまらないから、寂しいから誘うのではなく、食を通じて、一緒に豊かな時を過ごしたいから誘うのです。これは、一方的な押しつけたる食べさせたいとも違うニュアンス

#664 愉しいこととは、ダイレクトに言葉では表現できない、というモルック話。

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 八ヶ岳を訪れた、そのひとつの理由が、モルック体験でした。これ、フィンランドで馴染みのある遊びだそうで、シンプルな道具、簡単なルール、でも、難しさもあって、子どもでも参加できるという、なんとも幅の広い遊びです。 端的に表現するならば、並べた円筒の木を倒して、点数を競う(ジャストにまとめる)だけのこと。そう、たったそれだけ。 そんな遊びを皆で体験してみようと集まったわけですが、いい大人20名弱と子ども2名が、時に声を上げて、時に大笑いしながら、夢中になるという不思議なゲームでした。あれですな、ゲームというか、少し前の言葉を使うならばレクリエーションですな。  で、思い出しました、小学校の頃、クラブ活動(授業カリキュラムの中で必須)にて、レクリエーションクラブってのに入っていました。それが、とても本格的なもの。それこそ耳にしたことのないような名前の遊びを、見たことのない本格的な道具を使って体験させてもらいました。いや、その内容はきっちりとは覚えていないんだけど。 って、今考えると、担当だった先生が、 大学でそういった内容の専攻していたようで、 道具を新しく揃えるのではなく、すでに彼女が所有していたのも(大学から借りてきていたような気もする)、そんな理由からだったんだと思います。  話がずれてきた。でも、あれこれ思い出してきた。クラブ活動といえば、中学校3年生の時、映像制作理論だったか、そんなお堅い名前のクラブを選んだことがありました。選んだといいますか、そのクラブを担当する先生に、ナオシは絶対来いよって、廊下で言われて、で、選びました。実は、その先生、授業は受けたことなく、深い会話をしたことないのに、なぜかいつも名前で呼んでくれましたし、で、いつも気に掛けてくれていた、不思議な先生でしたっけ。  話がもっとずれてきた。えっとですね、その両クラブともですね、選んで良かったと思っています。いまさらに思ったんじゃなくって、その当時に。おもしろそうという直感から誘われるがままに入ったんですが、知らなかったあれこれを体験できたって意味合いで。そう考えるとですね、楽しさそうなことは、誘われるがままにたゆとうという、このスタイルは、実は幼少の頃からだったような気がします。  というわけで、話は最初に戻ります。モルック、愉しいです。とても愉しいです。なぜ愉しいかは、こんなところ

#652 ようやくクルマが愉しくなってきたと感じた、第43回東京モーターショー。

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 もはや、頭の中はごちゃごちゃです。東京モーターショーが、11月22日より開催(一般公開)されますが、手元にある情報がエンバーゴがかかっているのか、否かが、すぐに思い出せず。もちろん、こうして掲載する際には、再確認していますから大丈夫ですが……。って、右の画像は、レクサスのSUVのコンセプトですが、これは、解禁になっていますな、と、再確認。  ま、いろんな情報を知っておりますが、今、言えることは、今回の東京モーターショーは見所が多いということでしょうか。もちろん、トヨタのノア・ヴォクのような、従来モデルのフルモデル(コンセプト)も出品されますが、今回は、新コンセプトを謳うモデルが多く、新提案もあちこちから飛び出しています。つまり、おもしろそう、愉しそう。  ですから、具体的なあれこれを当てはめるのではなく、クルマのおもしろさ、愉しさを妄想、想像するといいと思います。そうなんです、あまりに自らのスタイルだけに照らし合わせて、そのクルマに対して、○と×を語る人は愉しめないし、その見方、とってもつまらない、というかもったいない。今回の東京モーターショーは、いろんなメーカーが、様々なモデルを展示し、これまでとは違うコンセプトを提案してきます。その意図を探り、そして、想像して愉しむ。それができると、入場料1500円(当日券)分以上を、愉しめるはずです。

#646 最も不得意とする自己アピールにチャンレジしてみました。

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 自らをアピールするのは苦手です。というより、したくないといったほうが的確なのでしょうか。というのも、これ見よがしに自己アピールをしている方の姿に、何も惹かれないからで、そうなりたくないだけのことのような気もします。違うか。苦手といえば、自分のことばかり一方的に話し、他人に興味がない人も苦手ですな。だから、自らはそうしたくないし、そういう人との距離は自然と離れていきます。さて、そんなしたくない、苦手のひとつである自己アピールをしてみます。  最近、しゃべるという仕事をしています。書くのではなくて話す仕事。いや、講演会ではなくって、動画という仕事ですな。そもそも、人前でしゃべることに長けているとは思いませんが、中学校時代は放送委員だったりしましたから、実は嫌いではないのかもしれません。どうなんでしょう、深く考えたことはありませんから。 そんな仕事をしながらも、それこそ完成したムービーを見たことはほとんどありませんでした。そう、あえて見ない。こっぱずかしいを超えた、なんじゃコイツを感じてしまうもので。  そういえば、先日、収録したムービーのナレーションを後日収録しなおすことがあったのですが、取材時に発した言葉を原稿にしてもらってみれば、もう、文法も何もあったもんじゃないし、言いたいことが支離滅裂で、まさに、なんじゃこいつ状態。普段の会話もこうなんでしょうかね、この人と思ってしまったほどですが、これ、聞くほうはたまったもんじゃないですな、を感じたわけで。すみませぬ。と言いつつも、すでにアップされてしまったムービーは修正しようもなく。  ま、そんな最近のムービーのいくつかのリンクを貼っておきましょうかね。いずれも、ムービーのどこかで語っていますので。    トヨタ・プリウスPHV インプレッション →  ■    ダイハツ工業・ミライース インプレッション →  ■    デリカD:5キャンパーエディション(ロータスRV) 紹介 →  ■    ブリヂストン・デューラーM/T674 インプレッション →  ■   こうした発表するってスタイルのしゃべる仕事のほかに、アドバイス的なしゃべる仕事なんぞできたらば、愉しいかなと思うのですが、そんな仕事はそう簡単には来ず。って、語るだけの、何かを持っていなければ、来るわけないですな。頑張らねばね。

#643 また同じ結論になりますけどね、ひたすらに多謝という、話。

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 週明けの平日、ふらっと長野を訪れました。走行距離は700km未満ですから、最近の走り方と比べるとおとなしいドライブでした。た、たぶん。  まず訪れたのは伊那の親友宅。同年代ではなく、同い年ならではの、そして、似た感覚を持った者どおしの、でも、似ていないところもある者どおしで、これまでと、さっきまでと、これからを、あれやこれやと話しながら(今回は聞きのほうが多かったか)ドライブをして、夜は夜で、余りものを上手く採り入れながらの手作りのゴチソウをいただきながら、昼間の話がそのままに止(や)まないという、不思議な間柄ならではの、時が流れていきました。なんつーんでしょうかね、この人とは、適度な距離感と、互いに互いを尊重しあうというスタンスが、いい関係を作り上げているとでもいいましょうか。ま、そもそもの知り合ったきっかけから含めて、こやつは不思議な人なんですが。上の写真は、伊那のそば祭り会場の駐車場にて。周囲を山に囲まれつつも、この空が広いという感覚を全身に浴びてしまいますと、やっぱり、伊那っていいなぁとついつい言いたくなるもんです。心開かれるというか、心解かれる、いや、説かれるか、ってな感覚ですな。  その居心地の良さに浸りつつ、自宅のようなくつろぎをさせてもらって、翌早朝には伊那を発ち、朝のビーナスライン(左2、3番目)を訪れてみれば、クルマがいない、空が高く、でも、寒い、という爽快な心地よさがあふれていました。朝に出してもらったコーヒーがきっかけで頻繁にトレイに行きたくなっていたこともあって、景色のいいところでは立ち止まって、用を足していたんですが、それを重ねるうちに、もう、何もいらんなぁ、と、達観した気分になりました。物欲がなくなるとは異なる、まさに、何もいらんなぁ。  この気分、なんだろう、どうしてだろうと考えながら、爽快な走りを続けて八ヶ岳を半周、いや、6割ぐらい周回して、いつもの八ヶ岳を眺めるスポットを訪れてみれば、左下のような風景が広がっており、今度は、もう、いいでしょう、と、これで十分でしょと、自分を納得させる、いやいや、自分を褒めるかのような、気分が沸き上がってきました。そうなんです、八ヶ岳を眺めていると、素直になれる、というか、こうしてついつい素直にされてしまうのです。そして、こういうスタンスになると、つまり、ある種の丸裸にされてしまうと

#638 いつもよりもサプライズが多かった気がする、昨夜のApple新製品イベント。

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   結局、昨夜のAppleの新製品のイベントは寝てしまったんですけどね、トイレに起きてしまって、 途中からライブで追いかけました。ちょうど、MacProの発表が終わったあたりだったか。 $5000からスタートだと予測していましたから、 $2999からという価格にかなり驚きまして、それで眠気がすっとびました。 って、CTOでひとつふたつ加えると簡単に$5000超えてしまうな構成ではありますけども。 そう、クワッドコア、かつ SSDが256GBという 低価格構成があるとは思わなかった。いや、これまで同様のラインナップを残したことで、まだ手が届く存在にあることはうれしく、しかし、Macminiをメインマシンにしてしまった者からすると、どうせなら手が届かないところへと行ってしまって欲しかったという想いもあったもので。  あとは、OS10.9が無料配布というのもサプライズだったし、iWorkのフリー化(ハードウェア購入条件はあるけど)も含めて、多くのトピックがあったと思います。まぁ、Apple流のハードウェア、ソフトウェアともにありき、というスタイルを明確にしたような気がします。縛りとか囲い込みって言われますけど、いいんだと思います、この会社のようなスタイルの場合は。  まぁ、何度も言いますが、Apple製品は自らをニュートラルにして、その道筋に倣うかのように素直に付き合うと、とってもラクチンであれこれと発見があるものです。そして、おもしろいことを愉しさをいろいろと教えてくれます。それは単純にデジタルデバイスという枠を超えた愉しさであり、自らのスタンスであったり、日常たるスタイルにまでつながるもの。何を言っているんだ、この人はと思うかもしれませんが、アプリケーションまで、あえてApple謹製だけにしてみると、あれやこれやと見えてくると思います。  自己を主張するスタイルを非難しませんし、しようとも思っていませんが、世の中のすべてに抗うスタンスの方を見ていると、この人、疲れないのかなぁ、と感じることがあります。たぶん、そうすることでバランスを取っているんだろうなと思って眺めていますが、一方では、もっと気を抜けばいいのに、そんなことを思っています。そう、そういうことも教えてくれるのが、Apple製品なんだと思うんですな。それを 揶揄して宗教だと表現されることもあります

#634 20代でやっておいたほうがいいけど、40代でやってもいいと思ったこと。

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 TED Talksの日本語訳版とも言っていいのか、NHK教育で放送しているスーパープレゼンテーション。ってタイトルはいいんですが、そのタイトルと番組構成と意図にずれがあるような気がしています。プレゼンなのに、云々。といいつつ、やっぱり日本語訳は必要ですから観ております。ふーんという内容もありますし、ほほぅという回もあります、そして、へぇーというトークもあってのこと。   先日放送したMeg Jay(→ ■ )は、最初はふーん、でしたが、後半はほほぅ&へぇーと、かなりの感心となりました。そういうスロープになったのは、たぶん、この方、語り方がとても弱く、そういう意味で人を惹きつける力も弱かったからかなと。内容はすばらしいのですが。って、難しいですな、プレゼンってのは。  で、彼女が語ったのはWhy 30 is not the new 20で、日本語に訳すと30代は20代みたいなものじゃありませんとなっていましたが、どこかニュアンスが違うような気がするんですが、まぁ、20代でやっておいたほうがいいこと、ってな、そんな内容でした。下の3つは、彼女がとあるクライアントに話したことですが、強く印象に残った言葉だったので、メモしておきます。  ・アイデンティティを築くこと     なりたい自分への投資を惜しまないこと    意味のない自分探しは、現実から逃げているだけ   ・親友とつるむのはほどほどに    同世代の仲間といると、新しい出会いは減り、仕事のチャンスも減る    新しい経験や出会いはたいてい離れたところにある  ・理想の相手を自分から探しに行くこと    周囲に流されることなく、まだ早いと先延ばしにせず  自分としては、なるほどね、と、何となく感じていた、ではありましたが 、こうしてあらためて言葉にされると、やはりショックを受けます。再認識しましたとでも言いましょうか。ただ、これを20代に訊いていれば良かったなぁ……、とは思いませんでした。番組ナビゲーターはそれっぽいことを言っていましたが。  もちろん、20代で実行できていたら、どんなに素晴らしい40代になったかは分かりません。しかし、これって、年齢関係ないような気がするんですな。20代向けの表現を40代向けに少々修正して、自らに言い聞かせると、うーむと思うことがたくさんとあります。個

#631 愉しさを説明できず、愉しさを思い起こす方法も伝えきれず、って話。

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 困りましてね。いや、突然ですけど。ちょっと困ったんです、先日。 愉しさを、愉しみ方を、ちょっと見失ってしまったと言われて、それに対して どう答えたらいいものやら、言葉が見つからなかったもので。  ほら、自ら、普段、これだけ愉しさに浸っているがゆえに、その愉しさたるやどういうものなのか、そして愉しさを取り戻す方法たるや、簡単に言葉にできるかと思いきや、何もできませんでした。  ま、とどのつまり、自分のスタンス次第、モノゴトの捉え方次第だとは思っているんですが、それを回答にするのも、ちょっと違いますしね。何か、きっかけがあれば、愉しさというのは、一気に回り出していくものなんですけどね。難しい、実に難しい。  画像は、我が家からみた夕焼け。愉しいって、ひょっとすると感受性が豊かになることにリンクしているのかなと思ったりもして。なんつーんですかね、こんな景色を見ているだけで、あー、しあわせー、って感覚が、ジワジワと身体の中からわき出してくるっていうんでしょうか。そう、心の中からではなくって、身体の中からって感覚なんですが。

#621 勘違いの品質を見破るには、都会を離れなさい、って、ススメ。

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 京野菜の中に、万願寺唐辛子ってあるじゃないですか。唐辛子といいながら、あんな辛さはなく、 姿だけで(といっても縮尺は違って、10〜15cmほど)の野菜 。って、意外に知られていないようで、話をするとぽかんとされることが多々あります。 で、その万願寺唐辛子の種は、全国に散らばっており、京都以外でも生産・販売されているシーンをたまに目にします。呼び名は、甘南蛮とか、甘長とうがらしとか、それぞれ。  八ヶ岳は小海でも作っている方々( こうみゆうきちゃんクラブ )がおり、また、 カフェ花豆 にて調理されることもあって、自分にはとても身近な存在になっています。なにより、旨いし。写真がそうなんですが、なんと、これ、スーパーにて納品されることを許されず、はねられたという品だそうです。その生育現場を見ている者としては、むしろ、モデルを見ているかのような、このまっすぐな整えられたかのようなスタイルにむしろ違和感を覚えてしまうのですが、はねられてしまったそうです。それはなぜか。たんに黒ずんでいるから。えっ?! と思ったのですが、スーパー基準ではダメなんだそうです。  世間一般ではこういう基準のことを品質と呼びますが、食べ物における品質は、もっと違う観点にあるように思います。 その姿形と味は、必ずしも一致関係ないのに。そう、野菜における品質とは、どうやら安全性や味ではなく、見た目にあるようで。そして、都会の人たちは、いつしか、それに狎れてしまっています。ですから、 見た目に惑わされることなく、価格にダマされることなく、食の本質を見破る目が必要であることを、強く感じました。消費者がもっと賢くならないと。それには、都会を離れてみることがいちばん。いや、生活を移せといっているのではなくてね。  そんな万願寺とうがらしですが、 東京銀座の宮崎地鶏専門店にて、600円/本で提供されていました。 そう、1本ね。 もちろん、焼いてありましたが、って逆に焼いてあるだけ。いや、炭火で焼いてあって、しかも、炭も備長炭とかだろうけどさ。山ほど食しているものとしては、信じられない価格でしたが、まぁ、まっすぐで、黒ずみなどない緑一色の優等生だけが、こうして上京できるんでしょうな。  ちなみに、京都のスーパーでは左の画像( ⓒT.ishikawa )のようにして売られているそうです。これ、 家庭の食卓に上

#619 しまうのに楽だから、同じ靴下ばかり持っているって、話。

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  ブタのイラストが書いてある同じTシャツ を3枚持っている友人がいます。ブタが好きってわけではないようですが、気に入っているがゆえに3枚持っているんだそうです。聞きはしませんでしたが、1枚がダメになったら、新しいのへスイッチするんではなく、たぶん、着回しているんだと思います。  そんな友人のことを、へぇ、ほぉ、おもしろいね、と思っていたんですが、ふっと我に返ると、友人以上に、自分のほうが“おかしい”かもしれないと気づきました、靴下をはきながら。  そう、写真がそうなんですが、無印良品の靴下。同じものを、未使用分も含めると、6足ほど持っています。もちろん、気にいっているという前提はありますが、その理由は、収集しているのではなく、便利だから。ほら、洗濯した後にたたむ(まとめる)時、たくさんあると探す手間が省けるじゃないですか。だったら、こうして組み合わせ自由を可能にしておけば、相方を探す手間こともなく……。そう、ただ、それだけ。どうしてこの靴下なのか、って、ほら、シーンに対してオールマイティに使えるデザインじゃないですか。色もグレーだしさ。  って、書いていたら、色違いのTシャツを2枚持っていたり、それこそ、ずっと昔にここで書きました、North Faceのポロシャツなんて、色違いで何枚持っているんだ? あれこそ、6年ぐらい着ているかもと、考えると、そうなんです、おかしいんです。  というわけで、人のことをどうこう言っていられないのでした。あ、靴下については、たとえ、昨日と今日が同じデザインであっても、ちゃんと履き替えていますから、別物です 。げっ、とか思わないでくださいまし。

#615 八ヶ岳から送ることができなかった、キミに見せたいシーンの数々。

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 週末と月曜日、八ヶ岳にいました。で、さきほど帰京したんですが、知人に帰宅を伝えたらば、八王子や奥多摩では、八ヶ岳の代わりにはならないのかい? と訊かれました。それは、キミはなぜにそんなに八ヶ岳なのだい? と、まさに夏目漱石のこころ調に、問われているかのようでもあり、また、嫉妬されているかのようでもありました。ただ、その回答はとても簡単で、代わりにはなりません、との表現に尽きるのですが、そこには奥多摩も八王子も代わりになる地はないというつけたしが、加えられます。つまり、それぞれに良さがあり、それぞれに代用はできません。  もちろん、何がいいかは簡潔に文字には表現できません。ですから、それを伝えやすい手段である 写真を、右に5枚ほど。 お気に入りの1冊に「キミに見せたいシーンがある」というサブタイトルが付けられたムック本があるのですが、ここにアップした5枚はまさにそんなシーンばかり。こういったシーンに出会った時は、その場にいる人たちと共有しながらも、その場にいない人と共有したいという想いに駆られるものです。今回も、その場でメールに携えて送ってみれば、携帯電話の電波が届きにくい通信環境もあってエラーが続発。そして、届かないことを繰り返しているうちに気づきました。この、キミに見せたいという想いは、実は一方的になっているんじゃないかって。自分がいいと思ってたとしても、キミがいいと思うとは限らないのだと。そして、とうとう、送るのを止めてしまいました。  さて、写真の解説をしておきましょうかね。いちばん上は、小海町高原美術館から見た朝焼けで、モーニング対応のために朝早くから準備をしている際に、外から東の空を眺めたところ。2枚目は突然に現れた夏雲(夏空)で、秋なのに少し夏に逆戻りという日の1シーン。3枚目は夜の小海町高原美術館なんですが、時間が経つに連れて、雲が薄れていき、気がつけば満天の星空になっていました。目が慣れたんじゃなくって、雲がなくなっていって星空が。4枚目は、朝の八ヶ岳と小海町高原美術館、先の朝焼けの翌日ですが、数日、いい天気が続いていました。この後、雲が広がって、一気に風景は変わりましたが、その1時間後にまた快晴へと戻りました。5枚目は夏空と秋空が組み合わさった空と浅間山。空に浮かんでいる雲も秋雲、夏雲と2種類あるように見えます。写真は爽快な風景が広がってい

#597 それは突然なことではなく、実は自然なことだった、計画性のある放浪。

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 ここのところ、思い立ったようにあちこちへ出かけていますが、そこにこれといった意図はなく、単純に、八ヶ岳から帰る際に、あのド渋滞にはまりたくないがゆえに下り方向へと走って、帰京を平日へと先延ばしているだけのこと。ですから、その行き先にこれといった計画性はなく、ただただ、勘に頼って気が向くままに走っています。結果、充足感はとても高くてですね、まぁ、自分なりのそんな“勘”にも、時折感心したりもしますが、まぁ、とにもかくにも愉しいことだけは確かですな。  こういった特に目的地を定めることなく、あてはなんとなくありながらも、あてもなくさまよう、つまり計画性のある放浪は、振り返ってみると、以前はよくしていました。そして、その計画性のなさと唐突な行動は、今よりも、もっとざっくばらんだった気がします。しかし、今も昔も変わらないのは、道中を愉しみ、人と親しみ、場に浸る。それは、出会いとか、交流とか、一期一会とか、そんなたいそうなレベルの話ではなく、単に発見を愉しんでいるとでも表現しましょうかね、そんなごくごく単純なものだったりします。  そして、こういった楽しみ方をしていると、その楽しみ方に気がつくと、すべてがプラス方向へとコロコロと転がり始め、それに逆らうことなく身をゆだねていると、モノゴトの見方や、出会いやらが広がっていくようになります。それは 加速的になって、しまいには 一気にバーン! といった感じに。不思議なものです。まぁ、こういったことは 過去に幾度か体験してはいたものの、最近は何かがつっかえ棒になっていて、その転がりが緩やかになっていたり、転がり初めては止まってを繰り返していることも意識していました。たぶん、自分で止めていたんでしょうね。 今回の場合、何がきっかけだったかはよく分からないんですが、つっかえ棒がコトンと外れたようです。まぁ、そういう時機が来ただけのことなんでしょうね、そういう時機が。たぶん。  で、ここに飾った写真は、今回の放浪にて、 心に残ったシーンのあれこれ。一部ではありますが、こうして並べてみると多彩なシーンを巡ってきたんだなと思いつつも 、まぁ、計画をたてず、目の前にあるおもしろそうなことに手を出すという、この連続的に何かを引き出すスタンスというか、行動に、らしいなぁと自身を分析したりもしましたが。  なんてことを考えていたら、

#549 ブルーベリー収穫で感じた、体験することで得る大切なもの。

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 山梨にてブルーベリー狩りをしてきました。というよりも収穫という作業的な意味合いで表現したほうが的確か。今年は豊作とのことで、実を残しておくと鹿やら動物が来てしまうし、実が落ちてしまうと虫が集まり駆除がたいへんとのことで、今回の収穫は、まさに採りに来なさいというニュアンスも含まれた、まさに指令的な意味合いも含まれていました。  って、これもまた桃と同じように1年分の蓄えになりますが、うちでは、ソースからデザートまで幅広く、というよりも、まさに適当に使います。まぁ、ブルーベリーってのは実は収穫がたいへんで、あの一粒一粒を手で包み込みつつ採っていきます。 そんな体験をしますと、 ゴミを取り除いて、粒を揃えて市販されているブルーベリーの価格のことを高いとは言えなくなります。手間がかかるんです。 まぁ、逆にいえば、それほどに手間が掛けられて、店頭に並べているわけで、その上品な変身ぶりに驚きを覚えたりもするものですが。  こうした体験はやはりすべきだなってつくづく感じます。体験することで、ありがたみが増すだけではなく、いろいろと考えるようになります。とある昆虫学者によると、 子供は、虫を捕ることで、様々なことを身につけていくそうです。自分なりに考え、そして自ら工夫して挑む、そして、捕まえ、時に逃す。そうすることで、生きていく上での知恵、知識とともに創作力も備えていく。幼少時代の虫取りに はそんな大切さがあるのだといいます。だから、虫を捕まえてきたといって、やめなさいとか、かわいそうとか、逃がしてあげなさい、そういう言ってしまうのは、子供の好奇心を摘んでしまうことになりかねないとも。  なるほどな、と思います。何をしてはいけない、何をしなさい、そんな環境下にいることは、果たして子供には幸せなのだろうか。そうは思えないな、と、子供がいない身ながら、勝手なことを感じた、ブルーベリー収穫でした。

#544 失敗しても、美しくなくても、とりあえず、自分でやってみるスタンス。

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 仕事が予想以上に早く終わったので、今日は網戸を付けました。我が家はリフォーム物件なので、サッシを入れ替えをした窓は網戸付きになっているんですが、古いままの窓は網戸なしとなっています。 昔って、網戸って存在がなかったんでしたっけか? 必要なかった? そんなわけはないか。団地だから? その理由はよく分かりませんが、ただ、 ここを開けずしても風通しがいいので網戸を付ける必要もないかなと思いつつ、網戸を付けました。いや、自作です。木枠を組んで網を張っただけの網戸。蝶番で留めて、いちおう片開き仕様の網戸です。費用にして400円ほどか。網戸を作ってくれる業者もあるようで紹介チラシが入っておりましたが、見た目や使い勝手はとても良さそうなものの5000円ぐらい掛かるようなので止めました。自分でどうにかなりそうだったので。  そう、まずは、自分でどうにかします。なんでしょうね、自分でできることは、自分でするというスタンスなのか、単なる貧乏性なのかは分かりませんが、自分で片付けてしまうことが多いような気がします。なぜか、どうしてなのか、考えてみましたが、分かりません。たぶん、子供の頃からの習慣というか、見よう見まねなんでしょうかね。家はじいさんが大工で、とうさんが電気工事屋でしたから、なんでも自分でやることを見て育ちました。そういう環境で育つと、そういう人間になるようです、どうやら。  そういえば、前の家で、網戸をぶち抜いてしまったので、退去前に自分で張り替えたら、驚かれました。その人には、タイヤ交換すら驚かれました。そんなレベルで驚かれてしまうスタンスに、こちらは驚いてしまうのですが。って、そういえば、IKEA製品の組み立てが煩わしいって人が多いって話も訊きましたっけ。愉しいんですけどね、自分でどうにかするのって。  というわけで、明日はジョイフルホンダ詣りです。あれこれ、買ってこないと。

#448 ちょっと後回しが発端となり、すべて後回しという、繰り返しな人生。

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 あれこれと、先延ばししても、あまりいいことはないと分かっていますし、先延ばししないように心掛けているつもりですが、ついつい堕落していくものです。性格でもありましょうが。あれこれと振り返るに、このぐらいだからと積み、それがやがて重なり、面倒もどんどんと積まれ、そして、放置、と。考えてみれば、そればかりを繰り返し、最後にどうなったかというと、引っ越し、という荒技に至っています。引っ越しサイクルが6年と言い放っていますが、それは意図したものではないんですが、実は、最後の手段的な行動であることは間違いありません。  今の住まいはまだ2年と少しですから、強硬手段に出るまでには至っていませんが、引っ越した当初のあれこれの目論みは崩れてきています。扉の前には物を置かないこと、これ大前提としてたのですが、どうも怪しくなってきたので、本日、扉の前だけでも物を整理しました。あとは、何かを取るために、何かをどかさなきゃいけない、をなくせば、完璧ですな。たぶん。  なんてことをしていて気付いたのですが、最近、名刺の整理をしていないなぁと。思い切って手を付けようと、名刺箱を取り出してみれば、なんと2008年から手つかずの状況。自分の場合、名刺交換をするのは、自動車メーカーやインポーターの方々、そして編集に携わっている人たちですから、仕分け数は多くないのですが、いかんせん山積みに手を付ける気がしなくて。  というわけで、こんなことを書いているわけですが。さすがにこのまましまうワケにもいかず。さて、はて。心掛けているだけではダメですな。行動しないと。

#379 SUVの人なれども、実はベンチマークはゴルフだったりする、ヨシダの素性。

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  そうそう、話はそれますけど、iPhotoを整理していたら、過去に所有していたクルマの写真が出て来ました。右がその一部ですが、似合うといわれたBMW、いやいや、最近書き散らしているBMWを所有したことがありませんでした。って、分かってはいましたけど。それにしても、 ここの書き込みをちょっとばかり振り返ったら、BMWだらけですな。決して、 BMW贔屓をしているわけではなく、素直に感じたことを述べているだけ、って、本人を知っている人は分かっているとは思いますが、ただそれだけのこと。あ、2013年次の RJCカーオブザイヤーインポートはまさにBMW3シリーズが受賞していますが、このページに書いてあることとイコールとは限りませんので。逆にいえば、イコールなのかもしませんが、好みと評価は違うことを明確にしておきましょうかね。  好みといえば、#378で書いた試乗会にて、初っぱなにX3に乗り込もうとした時に知り合いのカメラマンから、またもSUV(に試乗するの)ですね、と声を掛けられました。ディーゼルエンジンのチェックしたくてと返答しましたけど、そこでふっとSUVの人と見られていることを意識しました。いや、ダメとか、イヤだとかではなくて。事実、 10年、20万km乗っているグランドチェロキーは自らの顔ともなっていまして、 やはり同試乗会で会った同年代のライターさんからは、昨日の本田の試乗会でクルマ(グランドチェロキー)があったから、来ているのは知ってた、と言われましたし。まぁ、事実、ガタゴト道を走るために必要ですし、SUVのよさも知っています。そして、SUVに対しての意見を求められることもありますから、それを得意分野として捉えてもいいんでしょうかね。  ただ、この職業柄、自らの評価のベンチマークとしているのは、フォルクスワーゲンのゴルフだったりします。BMWでは? と思われるかもしれませんが、ゴルフです。そのバリエーション展開、プライスやら含めて、すべてにおいて。そういえば、とあるメーカーの開発者の方が言ってました。ゴルフは、ネジひとつまで分解しても、どうしたらあの乗り味を作れるか、分からないクルマだと。それは走りだけではなくて、コストも含めて。奥深いクルマであることは間違いないようです。あ、右の写真は実家のゴルフ5。5に対する評価が高いって意味合いではなくって、なんとなく

#365 とりあえず楽しもうというスタンスなら、さらに人生が楽しくなるUp!

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 フォルクスワーゲンのUp!、想像以上に知れ渡っているようで、ちょっとびっくりしております。そして、どう? って聞かれます。149万円という価格で買える輸入車ところもトピックになっているようですが、まぁ、ポジションとしてはlupoと考えると、価格的な意味合いからは特別語るまでもないような気がしていますが。逆にいえば、どうなの、この時代にあって、このクルマは? という意味合いでは語るべきところが多いクルマです。  ただ、最初に結論を言ってしまうと、気にされているネガティブなところは、考え方、捉え方次第といった感じがしました。2ペダルMTはご想像のとおりですし、1Lエンジンのパワーも、リアシートのサイズ感も同様。内装やらも価格なり的なところはあります。しかし、価格なりであっても、見せ方はとても上手くて、チープさにつながっていないところが、このクルマの真価。それは、走りにも言えることです。個人的には例のごとく3ペダルMTで乗りたいという思いがありますが、相談されたらオススメできる1台でした。  というような書き方をすると、2ペダルMT(ASG)はダメ、DSGと組み合わせれば良かったのに、と考えていると、思われるかもしれませんが、僕はこの2ペダルMTの組み合わせがダメだとは思っていません。これ、乗り方次第。MTとしてののダイレクト感は、1Lエンジンのトルクを有効に使うためには必要であることを感じさせます。たしかに変速時のトルク変動は大きく存在しますが、これ、アクセルを抜けばいいだけのこと。知人で、この手のトランスミッションを積んだ知人が2名(C2、C3プルリエル)がおりますが、その点については、両者ともに不満を漏らすことはなく、やはり乗り方次第と言います。そして、その乗り方に味があり、愉しさがあるのだとも。ですから、両者とも、否定的な意見になんだかなぁを口にします。  こういう深くを見ず、頭ごなしに否定するというシーンとして、最近のiOSに新採用されたMapの一件があります。まぁ、スタンスが違うだけの話でもあるんですが、自分の役に立たない=すべてが使えないと言いたくなるのもわかるのですが、可能性とか狙いとかコンセプトを考えると、このMap、とてもおもしろい。ここでも散々言っているFlyoverなんかもそうですが、写真下のカーナビなんぞ目指しているところはとても興味

#327 上から目線的な教えてあげるではなく、皆に伝えたいというマスコミな初心。

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 ここ数日、The Beetleを借り出しておりました。#324でも書きましたけど、いい。とてもいい。あちこち細かなところに注文はありますが、トータルとしての愉しさを感じ取ってしまうと、細々とした指摘がつまらないと思えてくるレベルのものばかりです。分かりやすく簡潔に言いますと、自然と笑みがこぼれてくるとか、笑顔になれるとか。  The Beetleは、クルマとしてのスペックだけをなぞると、つまらないと評価されてしまうモデルです。リアには旧世代のシャシーを流用し、1.2LターボというVWの中ではベーシックなエンジンを採用。でも、作り上げた走りは、そんな単純なものではなく、ビートルとはこうあるべきという明確な指標があり、それを実現していました。ハイスペックを与えてはいないのにスポーティと呼べる軽快感があふれ、コンフォートセダンではないのに、快適性を強く感じました。もちろん、ゴルフとは明らかに違うビートルというキャラクターがありました。たとえ、 質感が高いとは言えない部分があったとしても不満とは感じないレベルに収まっていて、だから、すべてを納得させられてしまう。 そして、オーナーは、すべてを少しだけ抑えることによって、走りに愉しさがあふれてくることを見つけ出し、このビートルを選び、その緩さこそが人生を豊かにしてくれることにやがて気付きます。もちろん、その逆の方もいるとは思いますが。  クルマは移動手段に過ぎないといってしまえばそれまでです。でも、クルマから教わることはたくさんあります。それはドライビングから、移動する愉しみ、そして、ライフスタイルやら、モノゴトの考え方に至るまで。 僕らは、こうしたクルマ(クルマに限らず)を紹介していかなければならないと思うのです。  大げさでしょうかね。でも、マスコミに携わりたいと思った者たちの初心は、ここにあったと思うのですが。少なくとも僕はそうでした。なんてことを思い起こさせてくれるほどに、いいクルマでした。