#349 ベースは東京にないことを悟りつつ、ほかにベースを定められない、その理由。
本日の東京は猛暑日だったそうで、って他人事のようですが、いちおう東京にいました。といいますか、朝、東京へ戻ってきたもので、なんとなくこの不快感に対してはどことなくお隣さんのことのように感じています。ただ今回の場合、例の八ヶ岳帰りではないのですが、いずれにしても、自らの基準がすでに東京から外れていることを感じました。なんてことを、35℃オーバー、かつ光化学スモッグ注意報が発令された中、エアコン未使用なリビングにて考えつつ、エアコンレスを自らへの多少の負荷と捉えるのか、東電への反発行動のひとつと考えるかなんてことも、あれやこれやと考えてみたりもしましたけど。
さて、話を戻して、今朝までの話を。風景を求めて、あちこちフラフラとしつつの撮影のアシストをしていました。といっても、いわゆるプロ的なアシスト的な仕事をしていたわけではなく、振り返ってみると、仕事という点から反省点が多々。仕事的な感覚よりも、発見する、浸る愉しさに浸かる悦びを感じに出掛けたという感が残っています。つまり、反省しきりでありながら、楽しかったと。
写真は、今朝の日の出のもの。自然を知っているつもりでいましたが、なんとなく見たことあるシーンですが、東京を離れるとこんな風景が当たり前に広がっています。しかも、二度と同じものは見られないという演出付きで。これを知ってしまうと、東京をベースとしたスタンスに少しずつズレを感じるのです。では、ベースはどこに置くことが理想なのかって話になるんですが、なんかどこかって決めつけないことも、ひとつの案なのかなと思うようになりました。好きな地、仕事の地、育った地、すべてがベースとでもいいましょうか。
ま、人生すべてが、そんな感じではありますが。楽しきことが多すぎて、絞りきれないのです。仕事も含めて。