#1184 能登の宿で、流しそうめん予行練習に誘われた、その理由。
これといって計画も立てずにいたら、流しそうめんの予行練習に誘われました。宿で、夏に開催するそうで、その予行演習。で、気がついたら、あちこちへとつゆを注ぎ、コップを片づけていました。ま、いつものことなんです、こういうのも。 この宿、 この場にいるだけで、そこにいる人たちと会話しているだけで、幸せを感じられるような、そんな豊かさがあります。それは、生活というか、幸せの基本(単位)であるコミュニティの理想を提案、言い換えますと、 地域コミュニティのあり方を根本から覆す……、いや、やっぱり、これが本来であり、理想ですな。それは、 そこに集う人だけではなく 、地元までを巻き込んでしまう作り上げるコミュニティであって、 それは 宿というスタンスに止まらない、人と人が繋がっていくというコミュニティの場たる理想とでも言いましょうかね。 もちろん、そこは、 宿としての理想的な機能性も備えていて、一般的に宿に求められる非日常を楽しむことができるんですが、一方で、他人と関わらないという、 マイペースを貫くこともできます。そして、それはたまたま得たものではなく、そういった機能性を意図的にデザインしています。そういったあれこれは、結果として 日常とは異なる非日常の中にある日常を教えてくれます。って、これは宿の方の言葉。 実は目の前にある豊かさ(本来の日常)を、いつもと違う非日常という場に身を置くことで、再認識できるという、ま、そんな場。分かりやすい表現を用いると、都会にいると月の明るさに気づきませんが、都会から外へと出ると、月には地を照らすだけの明るさがあることを知り、実は、それはいつものことであり、それこそが日常だった、と 気づく、と。ま、そんな感じ。 ですから、お客だからという上から目線や、見ていないからペット持ち込んでもいいだろう的なスタンスでは、この宿を楽しむことはできません。さらに言い換えるならば、テレビとか、スマホとか、なければ、時を過ごすことができないと思っている人にとっては、不親切と映ってしまう宿とも言えましょうか。いちおう、テレビは置いてありますけど。あとは、物量的というか、金銭的というか、それらが豊かさに直結すると思い込んでいる人には、理解できない宿であるのかな。でもですね、当たり前だと思っていた日常に何か疑問を抱き、豊かさってのはこれじゃないんだよなと気づ